「肉牛研究会」からアメリカ研修
高校卒業まで大阪で過ごした関谷達司は、満員電車と背広にネクタイという将来から逃れるのと、大自然の中で動物にふれあえる仕事を見つけるために、はるばる北海道へと渡ってきました。大学では肉牛研究会という日本に一つしかないまことにレアなサークルに所属し、日夜牛と戯れ、糞まみれになる4年間が始まりました。
実際の畜産というものを経験していくにつれ、夢と現実のギャップに悩まされ、お金も信用もない人間が自分の牧場を持つことの難しさを思い知った時期でした。
結局4年間では結論が見出せず、そんな時大学の教授からアメリカに行ってみないかという話があり、武者修行のために2年間の派米研修制度でアメリカネブラスカに旅立ちました。
やはり畜産の本場は聞いていた以上に規模が大きく、何といっても牧場のボスたちの気持ちの大きさ、懐の深さに感激し、自分の仕事に対する誇りと使命感を肌で感じるにつれ、半年もたたないうちに俺も大好きなこの北海道で牧場主になるということを決断したのでした。
トムラウシに入植
帰国後、友人の紹介でトムラウシの武藤牧場に実習に入り、何の迷いもなく、1年365日、がむしゃらに農家のスタートラインに立つことを夢見て汗水流す日々が続きました。
石の上にも三年という言葉どうり、3年が過ぎた頃から農協や役場関係者から離農跡地があるので入らないかという話がちらほら出てきて、すこしずつ夢が現実味を帯びる兆しが見え始めてきました。
しかし日々の生活の中で、仕事上での失敗や、懸命の治療にも関わらず牛が死んでしまった時、どうしても落ち込んでしまうことがしばしばあります。そんなときいつも近くでどっしりと構え、色々な表情を見せて自分を励ましてくれる大きな存在がありました。
トムラウシ山です。季節によって、時間によって移りゆく色と景色。子供の頃に親しんだ山登りを思い出し、幾度となくその懐に抱かれようと山に入って行きました。本当につらいけれど頂上を極めたときの爽快感と達成感。いつしかいやな事や辛いことをすべて忘れさせてくれる大きな存在になっていました。ここでやりたい。このトムラウシ山が一番素晴らしく見えるこの土地で牧場を持つんだ。
そうと決まれば早いもので、町の所有地でクリアすべき問題は多々ありましたが、色々な人達にお世話になり、平成元年。念願の関谷牧場が妻とおなかにいる息子、30頭の仔牛と共にスタートしました。
頼もしい助っ人
しかし始めたのはバブル最盛期の頃で、異常な高値で仕入れた仔牛が半年後に出荷する時にはバブルがはじけ、仕入れ値より安く、売れば売るほど赤字が膨らむという悪夢のような日々が続き、それでなくても大きな借金が開始早々また増えるという散々な経験をするという結果になりました。
そんな時、力強い助っ人が現れたのです。それは大学の後輩達。肉牛研究会の現役の学生たちが、関谷牧場の危機を聞きつけて、授業をさぼり交代で手伝いに来てくれました。1頭当たりの収益が減った分、頭数でカバーするしか対策はない。増頭するには牛舎が必要。しかし牛舎を建ててもらうほどのお金がない。それでは自分で作ろう。と学生達の手を借りて少しづつ、増築を繰り返し、5年ほど経ったときにはなんとか軌道に乗り関谷牧場としての形が出来上がってきました。
その後も伝染病が蔓延したり、出荷牛価格の暴落、BSEの発生など次々とやってくる試練を家族、後輩達、また10年が過ぎた頃から雇えるようになった従業員のみんなと乗り越え、今では育成牛1,600頭、肥育牛250頭、馬3頭、豚2頭、鶏10羽、アヒル1羽、ガチョウ1羽、犬5匹、猫多数、そして働き者の6人の若者たちという、いつも元気でにぎやかな関谷ファミリーとして現在に至っています。